孫武とは(孫子)

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孫武・孫子

孫武(孫子)とは

孫武(そんぶ 紀元前535年〜?)は中国 春秋時代の兵法家・軍人で、有名な兵法書「孫子(孫子の兵法)」の著者とされています。

孫武は斉の国の貴族であった田氏一族の子として生まれ、若い頃から兵書や古典を学んだそうです。しかし紀元前517年頃、田氏一族内で起こった内紛を逃れ、南方の呉へ向かうことになります。

呉では、宰相であった伍子胥の知遇を得て、首都郊外に居を構えるのですが、その時、自らの知識をまとめたのが「孫子」十三篇です。

紀元前515年に呉王に闔閭(こうりょ)が即位すると、伍子胥は「孫子」を献上し、度々、孫武の登用を闔閭に促します。そして七度目にして、ようやく闔閭は孫武を宮中に召し出すことになるのですが、兵を指揮するデモンストレーションで孫武は不興を買ってしまい、孫武が表舞台に出るまで、さらに三年を要することになるのです。

闔閭が孫武を宮中に召し出した時のエピソードがこちら


こうして紀元前512年にようやく呉の将軍に任じられた孫武は、早速、楚の同盟国であった小国の徐と鐘吾の攻略を成功させます。呉王 闔閭はその勢いで、大国の楚へ侵攻しようとしますが、孫武と伍子胥はそれを諌めます。

国力の回復に努めた呉ですが、六年後の紀元前506年に楚は20万の大軍で呉を攻めようと兵を動かします。迎え撃つ呉の兵力は半数以下。

その状況で孫武は軍を2つに分け、一隊は国境付近にいる楚軍の本隊に向かい、もう一隊は精鋭3万人で楚の首都へ向かって密かに進軍させました。当初、兵力差を生かして呉軍との決戦を考えていた楚軍ですが、呉の新手が首都に向かって進軍している報を受けて、全速力で首都へ引き返すことになります。

呉との国境から楚の首都まで約10日間の行程ですが、強行軍で疲れ切った楚軍を待ち構えた呉軍の精鋭3万が撃破し、その後もさらに五戦五勝した呉軍は楚の都を落とし、楚王を逃亡させることに成功しました。

寡兵で強国 楚を破ったこの戦いによって孫武の名声は大きく上がり、その後も晋や斉という大国と互角に渡りあったのですが、紀元前496年に呉王 闔閭は孫武の制止を聞かず越を攻めて敗北。受けた矢傷が元で闔閭は亡くなってしまいます。

その後、孫武は伍子胥とともに太子の夫差(ふさ)を補佐し、国力を蓄えて、越を大きく破って雪辱を果たすのですが、孫武の名前が歴史に残るのはここまでになります。

孫武のその後は、呉王 夫差への讒言によって職を辞したとも、夫差に誅殺されたとも言われていますが、定かではありません。

 

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